疲弊(ひへい)
[名](スル)
- 1 心身が疲れて弱ること。「神経が―する」
- 2 経済状態などが悪化して活力をなくしてしまうこと。
- そう、私は疲れていた。
- 変わらずエクササイズ動画は続けている。
けどそこじゃない。
もっと深いところだ。
夏休みはあっという間に過ぎた。
しかも、夏休みらしい夏休みはもらえなかったことに気付いた。
世の中では何連休だどこどこに旅行だやれ祭りだ花火だと盛り上がりを見せた2022年夏。
8月の2週目は普通に土・日のみが休みだった。
3週目、世間様は盆休みだ。
我々も月・火の2連休をいただいた。
しかしその他は仕事だった。
普通に週休2日だった。
こんな夏休み、夏休みとは呼べない。
普段通りだった。
それに射撃大会もあった。
射撃の成績はそこそこだったが、大会後に会長さんから5キロほどのイノシシの塊肉をいただいてしまった・・・。
どーやって食べ切るん・・・。
毎日子どものお弁当も作らなければならない。
幼稚園でプールに入れてくれるため、毎日水着やタオルも洗って用意しなければならない。
持っていく着替えも、必ず着替えて帰ってくるので、毎日2着服を洗う。
旦那の昼ご飯はどうしているかって?
あやつは毎日外で食う。
体力的時間的負担はないかもしれないが、毎日イノシシを食っている私の精神は病んでいく。
なぜあやつが金を使って良くて私はイノシシを食っているのか。
そう思うと腹が立ってくる。
そして必ず晩ご飯の時間はやってくる。
嗚呼家政婦さんを雇いたい。
手を抜けるところは抜きながらではあるが、あれこれ考えながら作ったり、なかなか食べてくれない子どもと格闘しながらの夕食は苦痛でしかない。
極め付きは「介護問題」である。
お義母さんが退院を迫られているのだ。
医者からハッキリ言われてしまった。
骨折の治療は終わりましたのでいつ退院してもかまわない、と。
それ自体は喜ばしいことなのだが、歩行補助具(歩行器なのか車椅子なのか)が必要なお義母さんのお世話をするのが自宅で同居のお義父さんとなると、体力的に不可能である。
かつ、認知が悪化している。
どれだけ寄り添えるのか。
現役で仕事をしているお義父さんは生活をどうしていくのか。
施設に入ってもらうしかない。
我々介護初心者は考えが甘かった。
この施設探しが難関だった。
スタートダッシュでしくじっていた。
軽く構えすぎていた。
そして圧倒的に知識がなかった。
この話はおいおいできたらいいなと思っている。
この介護問題について、時間的に余裕が一番ありそうだと思った私が指揮を執ることにしたのだ。
ほぼ公務員のような職業である旦那と妹さんに対して、自営業の当事者(お義父さん)に雇われている私。
一番フットワーク軽そう。
窓口業務や施設の手配など、指示されて動くのであれば楽だが、そうではなく自分で考えて計画して動かなければならない。
そんな日々が過ぎて思ってしまった。
なんでわたしばっかりこんなに大変なの。
私のこの日々の蓄積は報われるのだろうか。
きっと感謝はされているだろうが、それすらも感じ取れない。
なぜ「やるべき人間ではなくやれる人間がやる」世の中なのだろうか。
貴重な休日まで返上して人のために動いて、見返りは?
私に返ってくるものはあるのか?
家族だから見返りなんて求めること自体が悪なのか?
私のために何かをしてくれる人はいるのか?
丁寧にコーヒーを淹れた。
誰も労わってくれないのであれば自分で労わるしかない。
やはり求めるのがダメなのだ。
悪ではなくムダ。
人のために何かをして自分が幸せになろうなんてのは、自己満足の世界だ。
つまり、自分がそれ(尽くすこと)に価値を見出して初めて幸福を認識する。
それ以外は承認欲求だ。
こんなにもいいことしてますよ、慈善活動してますよ、人のために動いてますよ。
それを他人が見て知り褒めてくれる。
それが幸せにつながる。
人に「いい人」と言われることによっていい人になりえる人間。
残念ながら私は後者だ。
私は決して出来た人間ではない。
本当にダラダラとしていたいし、「ふ~ん」と言って見過ごして生きていきたい。
でも人間関係を構築してしまったのでそういう訳にはいかない。
だからやったらやった分見返りがほしくなり、もらえないからストレスが溜まる。
だけど、一杯のコーヒーで少し落ち着いて、他人に求めたってムダだ、と思い出すことができた。
わかっていてもすぐに忘れて他人に期待してしまうのが人間だ。
それが甘い。
また気を引き締めなおして生きていかなければ。
またコーヒーを淹れよう。