痛いほど突きつけられた現実。
所詮、(他)人の体で起きていることは、自分たちには痛みや苦しみはわからない。
心配することはできても、それが何の役に立つだろう。
痛い思いをしているのはお前だけではない。
苦しいことはこっちだってあるのだ。
たとえ夫婦であっても、痛みを分かち合ってもらえると思うのは傲慢であり、所詮は他人が共同生活をしているだけなので、当事者であっても例外ではないのだ。
昨日の夜はひどかった。
お腹の張りに加えて、動悸に近い体のダルさ、そして息切れ。
お風呂から上がってからそれが止まらない。
張り止めの薬は前々からあまり効果がないので、お風呂の前に飲んではいてもいつも張るのだが、今日はいつも以上に張っている気がする。
暑いのでドライヤーの前に体を冷やすため扇風機の前で座るのだが、椅子に座っているだけで動悸がする。
椅子ではしんどいので、リクライニングチェアに移動するも、少し体勢を変えるだけで息切れがする。
なんとか髪の毛を乾かして寝室に移動し、いつも通り骨盤高位の体勢に入ったが、息切れがして耐えられず、体勢を保てない。
当然、逆子体操もできない。
着圧ソックスを履くにも一苦労する。
そしてそのまま寝る体勢に入る。
ここまで、一度も旦那は心配の声をかけない。
テレビを見て何か言っているが知らない。
スマホを触っている。
いつも通りに。
この時に痛感した。
あぁ、妊娠も他人事なのだな、と。
しかし、彼を責められない。
だって、他人事なのだから。
彼には苦しみがわからないし、痛いのは彼ではない。
彼には彼の痛みや苦しみがあって、それは私にはわからないのと一緒。
つまり、風邪だろうがガンであろうが妊娠だろうが、自分に起きていることなら、他人に辛さを共感してもらうなど不可能であるし、またわかってもらいたいなとど思うのは独り善がりなのだ。
夫婦だから、妊婦だから、という理由で「わかってもらえる」「わかってもらえて当然」と思ってはいけない。
そんなことは理由にならない。
自分で解決するしかないのだ。
しんどくてもご飯の準備をしたり、片付けをしたり、洗濯したり、それが役割分担ならやるのだ。
できなければ頼むのだ。
頼まなければ、いつも通りできると思われて当然だ。
「辛そうにしているのに」を盾に「伝わるだろう」と思ってはいけない。
人はエスパーではないのだ。
辛いことをわかってもらいたければ言う。
ただ「辛い」と言ってもダメだ。
具体的にどうしてほしいか言うのだ。
そこまでして初めて伝わる。
そんなことを教えられた夜でした。